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すべての人に教育を受ける機会を −幕末・維新の志士たちに学ぶ−
                                                               
 いつの時代にも、経済的な理由で十分な教育を受けられなかった、恵まれなかった人々がいました。しかし、そういう人々の中にこそ、将来、国のリーダーとなる優秀な人材が隠されているものです。それを発掘するのが本校の使命です。幕末から明治初期のような激動の時代には、身分や経済力にかかわらず幅広くやる気のある人材が登用されました。本校では、東日本大地震の被災者の方々を含め、進学をあきらめていた方々に、幕末の志士のように、学んで優秀な人材になるため大学教育を受けるチャンスと夢をご提供します。
 日本が近代国家への一歩を踏み出した激動の時代に活動した偉人・英雄たちの多くは、身分も低く、貧しい家庭の出身でした。
                                                               
 江戸時代末期から明治維新にかけての時代は、260年間にわたって日本を支配していた徳川幕府が崩壊し、日本が世界へ向けて扉を開き、近代国家への第一歩を踏み出した、まさに激動の時代でした。それまでの古い常識や固定概念、価値観が通用しない、全く新しい世の中になったのです。古い体制の崩壊、古い常識や価値観の解体など、ちょうど21世紀を迎えた、今の日本と似ていないでしょうか。
 このような激動の時代には、従来の日本式の「暗記力」偏重の勉強方法だけでは生き抜いていくことができません。先を見通し、状況を的確に判断し、独創的に問題解決のできる力、すなわち、「思考力」「決断力」「創造力」「問題解決能力」が必要とされるのです。
 ここで、幕末維新の時期に活躍した英雄たちが、貧困や身分差を乗り越え、どのようにして問題を解決し、時代を動かす大人物となったのかを見てみましょう。
 小説、テレビドラマ、漫画の主人公としておなじみの坂本龍馬は、「薩長同盟」「大政奉還」という歴史上の大事件をなしとげた大人物です。龍馬は、自由な発想力と卓越した行動力をもち、常識的な発想では誰もが不可能だと思った大きな仕事を可能にしました。
 龍馬は土佐藩の「郷士」という低い身分の出身です。龍馬の実家の坂本家は、もともとは質屋で、「武士」ではなく「商人」の出でした。龍馬の何代か前の先祖が「郷士株」を買って「郷士」という下級武士の身分を手に入れたのです。土佐藩では、藩主山内家に仕える「上士」という上級の武士と、「郷士」のような下級の武士(「下士」)との間には厳しい身分差別があり、上士と下士とでは住む場所から着る物まで違っていました。下士は上士から「切り捨て御免」にされても文句の言えないような身分の低い存在だったのです。
 幼い頃の龍馬は、弱虫、泣き虫で、寝小便の癖があるような子どもでした。そんな龍馬の根性を叩き直したのが、龍馬の姉の乙女でした。龍馬は12歳の時に母を亡くしますが、それ以後、母代わりになっていた姉の乙女は龍馬を厳しくしつけ、剣術、馬術、柔術、水練などを学ばせました。やがて1853年、19歳になっていた龍馬は、藩の許可を得て江戸へ剣術の修行に行きます。この1853年はペリーの黒船がやってきた年で、龍馬も品川沖の警備に駆り出され、初めてアメリカという外国の強大な軍事力を実感しました。
 1862年、28歳になっていた龍馬は土佐藩を「脱藩」し、江戸に向かいます。江戸では勝海舟に面会。尊王攘夷、倒幕派であった龍馬は、アメリカ帰りで開国論者である海舟を「西洋かぶれ」「日本の敵」とみなし、斬り殺す覚悟で会見に臨んだのです。しかし、海舟から海防の重要性と海軍設置の必要性をとくとくと説かれた龍馬はその場で突然、海舟と師弟の契りを結び、海舟の門下生になってしまったといいます。ここにも、古い常識や価値観にとらわれない、龍馬の人物像がうかがえます。
 その後の龍馬は、「日本最初の株式会社」と呼ばれる「亀山社中」(のちの海援隊)を発足させ、それまで犬猿の仲であった薩摩と長州の同盟に尽力しました。そして、後藤象二郎に「船中八策」という新国家構想を提案。この中には、幕府と倒幕派との武力衝突を避け、幕府から朝廷へ平和的に政権を返上させようという提案があり、これが「大政奉還」へとつながりました。
 龍馬が師と仰いだ勝海舟も低い身分の生まれでした。幕府直属の御家人とはいえ、「小普請組」という、40石余りの最下級の身分でした。しかし、海舟は志を高く持ち、文武両道に励みました。武道は直心影流の免許皆伝を得、学問は蘭学、西洋の兵学・砲術・航海術などを学びました。借りていた『和蘭事典』を2部書き写し、そのうちの1部は売却して学資に充てたというエピソードが残っています。このように努力した海舟の実力は徐々に認められるようになり、蕃書(洋書)調所に出仕、さらに長崎海軍伝習所の一期生(のち教授)となりました。1860年には幕府の船「咸臨丸」の艦長として渡米、日本人として初めて太平洋を横断しました。
                                                               
 1867年の大政奉還の後も旧幕府勢力は残り、新政府と旧幕府の間では「鳥羽・伏見の戦い」などの武力衝突が続いていました。官軍(新政府)は江戸総攻撃の準備を進め、攻撃の日取りまで決定していました。しかし、攻撃開始の直前、官軍側の代表である西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟が江戸・薩摩藩邸にて直談判し、両者の話し合いによって「江戸城の無血開城」が実現しました。海舟は、官軍が江戸に攻めてきた場合、江戸湾の対岸の千葉に住民を逃がし、町中に火を放つ計画まで立てていました。町火消や「やくざ」のような下級の庶民にも人脈のあった海舟が全て段取りをして西郷を説得し、西郷がそれを飲んでくれたため、「無血開城」が実現したのです。
 西郷隆盛(西郷吉之助)も薩摩藩の下級士族の出身でした。長男であった吉之助の下に弟と妹が3人ずつおり、小姓組小禄という最下級の身分で、家族の生活は常に苦しいものであったといいます。西郷は子ども時代の怪我がもとで武術をあきらめ、学問に精を出すようになりました。若い時に武術よりも学問に努めたことが後の西郷の人生に役立つこととなります。西郷は藩主島津斉彬に認められ、斉彬の参勤交代に随行して江戸へ向かいます。その後は入水自殺未遂、2度の流罪など波乱の人生を送りますが、薩長同盟、江戸城無血開城など、幕末から維新への激動の時代の中で大きな役割を果たしました。
 テレビドラマなどで有名な新選組の局長・近藤勇や副長・土方歳三は、元は武士でさえなく、多摩地方の農家の息子でした。彼らは、将軍徳川家茂の上洛に際し、将軍警護のために募集された「浪士組」に参加し、これが後の「新選組」になりました。「新選組」の隊士は京都の治安維持に活躍し、尊王攘夷派の過激派数十人を相手に、わずか4名(諸説有り)で斬り込んだ「池田屋事件」で実力を認められ、幕臣として取り立てられて、念願の武士となったのです。
 これらの幕末・維新の偉人たちは、激動の時代のなか、本学の教育理念である「正解のない問題」に独創的に立ち向かい、貧困や身分差を超えてチャンスをつかみ、自らの努力で道を開きました。そして歴史に名を残しました。近代日本の基礎を築いた彼らの功績の延長上に、現代の私たちの社会がありますし、将来もあるのです。
                                                               
 人生に行き詰った時、助けてくれるものは何でしょうか。このような問いに対して、ユダヤ人は「ダイヤモンド」、中国人は「金(きん)」と答え、日本人は「教育歴」と答えるという話があります。もちろん、ユダヤ人や中国人を含め、どこの国の人にとっても、しっかりした教育を受けることは必要です。教育がなければ、ダイヤモンドも金も、その真価を発揮することはできないでしょう。そして、ダイヤモンドや金は盗まれるかもしれませんし、盗まれたらその価値はなくなってしまいます。しかし、人が身につけた教育を奪い取ることは誰にもできません。教育こそが、誰にも奪うことのできない、いざという時に私たちを助けてくれる、「本物の宝」だと言えるでしょう。
 本校は、皆さん一人ひとりが、経済的な理由で進学をあきらめることなく、教育という「本物の宝」を手にすることができるよう、全力で協力してまいります。
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